2008年03月10日

最近のこういう一連の流れを見てると、10数年前とは完全に流れが変わったなあと実感する。

「神ツール」??初音ミク踊らせるソフト「MikuMikuDance」大人気 - ITmedia News
 少なくとも大手公告代理店やマスコミが世の中の流行や潮流を作っていける時代は過ぎ去ったのだろう。
 ホントにうれしいし楽しいしドキドキする。
 全てはインターネットを代表する通信技術の進歩と普及に因るものだと思っているが、その昔、電話回線繋いで2.4kbpsのNifty-Serveをチマチマやってたときには想像もつかなかった世の中になってる気がする。
 ネットは善くも悪くも自分が世界の中心になれる構造になっている。
 インターネット回線そのものの構造もそうだし、mixiの繋がり方を考えればそれは一目瞭然(?)だと思う。
 自分を中心に据えて自分から情報を発信できる。
 この部分が、当たり前だが今までのメディアとは決定的に違うところで、同時に素晴らしいところだと思う。
 これは僕らが日頃思っている以上に実はスゴいことで、社会や経済のあり方、産業構造のパラダイムシフトを日々起こしているのだと思われる(少なくともボクは常々そう考え、実際にそう感じている)。
 テレビ以上の、実に革命的な発明だろう。
 匿名掲示板による本音の表出、幾多のブロガーによるマスコミ牽制と個人意思の発信、SNSによる柔軟な個人のネットワーク化・・・。
 そしてYouTubeやニコニコ動画では、素人職人コラボによるワクワクするような動画・音楽コンテンツがものすごいスピードで生まれてきている。
 最近のボクのお気に入りはこれ。

 で、冒頭の「神ツール」を使用して初音ミクに同じ踊りをつけたのがこの動画。

 この作品に行き着くまでに、原曲+リミックス+踊り+編集+初音ミク+神ツール+最終制作者と何人もの人の手が、文字通り時空を超えて加わっている。
 実社会での法律上の問題は別にして、著作権等の制作上邪魔にしかならない概念を飛び越えて、全く新しい価値観を持つ作品を創造している。
 これは誠に素晴らしい話だ。
 ニコニコ動画のスゴいところは、それを実際に具現化し始めているところに尽きる。
 しかもこういう作品を作ってるのは、オタクやひきこもりを中心にした一般人が多い。
 2chのログが書籍化、映画化され、ブログの記事が、逆に新聞に取り上げられたりしているように、おそらく、これからは音楽や映画はもちろん、流行やトレンドも、ネットから溢れ出てくるようになるだろう。
 そして、何事に関してもネットを通じてボクたちの是非が反映される社会になるんだろうと思う。
 いくら電通や博報堂が目を$マークにして画策しても、ボクらがNO!だと言えばNO!なのだ。
 受け入れる余地はそこにはない。

「セカンドライフ」撤退企業続出

 当然、社会のしくみや産業構造、法律もそれにあったものに変わっていくだろうし、変容できないモノは切り捨てられて枯れていくと思われる。
 「著作権の法的解釈とその周辺の著作権ビジネス」、「テレビ、新聞、雑誌などの一方向マスメディアと、それにへばりつく広告業界」は枯れていくだろうな。
 きっと。
 これから10数年後の世界を想像すると、何ともうれしい限りだ。

2008年01月09日

人との付き合い方

全国ニュース(社会):苦情対応で自殺、公務災害と認定 埼玉の女性保育所長

<全文>苦情対応で自殺、公務災害と認定 埼玉の女性保育所長
2008/01/09
 地方公務員災害補償基金埼玉県支部は9日までに、2002年に焼身自殺した同県狭山市の市立保育所女性所長について、保護者の苦情対応によるストレスで発症したうつ病が自殺の原因として公務災害と認定した。
 遺族代理人によると、所長への行為は他人に理不尽な要求を繰り返す「モンスターペアレント」の典型で「こうした保護者に自殺に追い込まれ、公務災害に認定されたケースは初めてではないか」としている。
 所長の自殺後、保護者側からの謝罪はなかった。所長は園児同士のけんかで軽いけがをした男児の両親から約4カ月間、付きっきりでの保育を命じられたり、繰り返し苦情を受けたりしたという。
 さらに市役所に「誠意がない」などと所長を批判する手紙が送られ、約1週間後に保育所敷地内で焼身自殺した。
 遺族は03年に公務災害の認定を請求したが、同支部は05年、遺書の内容などから「精神疾患が原因ではなく、保護者への抗議から焼身自殺をした」として退けた。しかし同支部審査会が昨年末、処分取り消しを裁決していた。


 う〜ん、他人事に思えないって人、結構多いんじゃないかなあ。
 世知辛い世の中だと言えば一言で終わるが・・・。
 焼身自殺って抗議の意味が大きいってイメージがあるから、十中八九その「モンスターペアレント」への当て付けなんだろうけど・・・そんな相手の気持ちがわからない未熟なバカ親がココロを痛めることはないような気もするなあ。
 それどころか「心的ダメージを受けた!」とか言い出して遺族や市役所に損害賠償したりなんかして。
 全然笑えない。
 亡くなった方には申し訳ないが、死んだだけ損だよ、って思う。
 昔は「話せばわかる」を自分としてはモットーにしてきたところがあるんだけど、今は「わかんない人には何言ってもわからない」ってのがベースになりつつある。
 「対話を止めちゃ行けない」というのは容易いが、それに投下するエネルギーと時間の代償はバカにならないし、何にしろ、自分に「経験」という知恵がついてしまった。
 無駄なことを避けるというのは生き物としての「学習」だ。
 ならば自分と同じ価値観の人と寄り集まって暮らして行こう、それがお互いにとっての幸せなんだと思うようになる。
 まあこういうのが歳を重ねるってことなのかもわからんが。
 今はそういう人との付き合い方が自分にはしっくりくる。

2007年03月06日

愛国心について(その2)

 ボクが生まれたのは大阪の片田舎だった。
 裏の野原からは生駒山や信貴山、金剛山が望めたし、大和川もすぐそばを流れていた。
 稲が刈り取られた後の田んぼは、中当てやら凧揚げ、鬼ごっこをする恰好の遊び場。
 友達と日がな一日遊んでいた。
 ボクは両親と祖父母と弟と猫と一緒に暮らしていた。
 絵に描いたような大家族で、今から思えば賑やかな楽しい日々を送っていたように思う。
 親戚からはもちろん、隣のおばちゃん、おっちゃん、お姉ちゃんからも家族同然にかわいがられ、酒屋や八百屋、村の住人からも色々声を掛けられながら育った。
 やがて幼稚園、小学校、中学校へと進学するに従って、自分の行動範囲、世界もどんどん大きくなっていった。
 友達も多くなり、交友関係も同じように広がっていった。
 狭い家から近隣の地域、村から小学校区、中学校区へ。
 高校は電車で大阪市内まで通うようになり、大学へは・・・とうとう上京するまでになった。
 こっちに来てもう18年になる。
 住んでるのは一貫して埼玉。
 大阪で暮らした年数を超えようとしている。
 結局ボクはそのままこっちで就職した。
 そして行動範囲と交友関係は関東を中心にますます広がっていった。

 ひとつ、こっちで暮らすようになって気付いたことがある。
 「大阪」がこよなく好きだということ。
 毎週テレビで見ていた吉本新喜劇も、高校のときよく通った日本橋も、天王寺公園も・・・軌道が狭い?近鉄南大阪線の車両も中学校のグラウンドも、通学路横のキャベツ畑も・・・川を渡る歩道橋も小学校の古い校舎も・・・当時の先生も友達も・・・親戚のおばちゃんらもウチの家族も。
 本当に好きだということ。
 ココロの中から自然と溢れてくるそういう穏やかな感情。
 親から始まって・・・家族を、親類を、近隣を、村を、小学校区を、中学校区を、そして大阪を、と対象はどんどん広がっていった。
 その愛情の対象は、自分の行動や思考と一緒に広がり、また歳とともに深まっていくのを経験的にボクらは知っている。
 きっとボクは埼玉、そして関東も好きなんだろうな。
 これまでに知り合った友人、通った職場、大学、今まで登った山々、思い出の海が存在する関東地方を、やっぱり愛してるんだろうなと思う。
 そしてその延長線上にあるのが日本という国であるような気がする。

 で、ここからが本題。
 それでは国を愛する心、愛国心とは一体何なのか。
 ボクは愛国心というのは、親子愛、近隣愛、母校愛、郷土愛と比べて決して特別なものではないし、また、単独でそこに存在するものでもないと思っている。
 愛国心は他のものへの愛と一緒に語られるべきであって、またそこでとどまってしまうものでもない。
 本来は日本から近隣諸国へ、アジアへ、世界へ、人類全体へとその対象を拡大させていくべきであって、愛情の対象をひとつの国にとどめておこうとするのは極めて不自然な形だと感じる。
 安倍自民が学校教育での「愛国心」を強調するのは、そういう自然な形で発生する「愛国心」の存在を否定するもの以外の何者でもない。
 一連の流れから考えて、家庭や地域での関係が稀薄になり、学校が崩壊している現状の中で、国を愛する心だけを強制するというのはかなり異常なことだと言える。
 人が成長する上で関わっていく、家族や地域、学校や会社、地方社会のあり方を根本から問わずに、もしくはお茶を濁しながら、「国を愛する心」だけが言及されていくのは極めておかしな話だ。
 ましてや地域や郷土、自分の周りの人々への愛情をまだまだ充分に認識できていない小中学生に対して、「愛国心」だけを飛び級的に学ばせようというのは一体どういうことなのか。
 「愛国心」は、他の愛情と一緒に連続性の中で語られ、体得されていくべきもの。
 一方的に大人から押し付けられ、評価されながら知識として学ぶ「愛国心」や、「国」という枠にはめられてそれ以上の成長拡大を許されない愛するという感情は・・・何ともやるせない「いびつな形のもの」になるに違いない。
 それは本来あるべき「愛国心」とは似ても似つかないものになるだろう。
 ココロが痛む。

jizo.net: 「愛国心」について(その1)

2006年06月01日

「愛国心」について(その1)

愛国心:通知表評価項目に 埼玉で52小学校、愛知も−今日の話題:MSN毎日インタラクティブ

愛国心:通知表評価項目に 埼玉で52小学校、愛知も
 「国を大切にする」などの「愛国心」表記を通知表の評価項目に盛り込んでいる公立小学校が埼玉県で52校に上り、岩手、茨城、愛知県にもあることが毎日新聞の全国調査で分かった。教育基本法改正案を巡る国会審議で、小泉純一郎首相は「愛国心があるかどうか、そんな評価は必要ない」と答弁したが、学校現場は既に評価へ踏み出し、全国に広がる気配だ。【まとめ・井上英介、高山純二、高本耕太】
<中略>
 埼玉県行田市では市立小全16校中14校が、現行学習指導要領の施行と同時に、通知表の6年生社会科の観点別評価項目の一つに盛り込んだ。実際の記載は「わが国の歴史と政治、および国際社会での日本の役割に関心を持って意欲的に調べ、自国を愛し、世界の平和を願う自覚を持とうとする」。担任が3段階で絶対評価する。<後略>


 このニュースを聞いて、いよいよか・・・と思う。
 そろそろ自分にとっての「愛国心」とはなにかをハッキリさせておいた方がいいんだろうなあ。
 僕の結論から言うと、「愛国心はあっていいものだが、人から強要されたり、その度合いを評価されたりすることはあってはならない」ってところか。
 埼玉県の学校での実際の表現は「我が国の歴史に関心を持ち、それを意欲的に調べることを通して、歴史や伝統を大切にし、国を愛する心情を持とうとする」ってことらしいから、これが学習指導ということであるならまあ許せるんだけどな。
 通知表の評価対象にしたあたりがイタイ。
 痛すぎる。
 「私は子どもの教育については何も考えておりません。とりあえずお上の意向に・・・」って校長がゲロッてるのと同じだよ。
 大体、通知表とか内申書での評価対象にされた時点で、生徒やその親がこぞって妙な動き方するの、まだわからんのかね?
 「ボランティア活動」を評価の対象にしてしまったのがそのいい例だと思うが。
 少なくとも友人の保育士はとても困っていたぞ。

さるさる日記 - 男女3人・・・三十路だめだめ交換日記

 教育現場で深い考え無しに「評価対象」にすると、本来意図していたものとは全然違った結果が生まれるってことにいい加減気づけよ。
 そんなことしてたら、そのうち「ニッポン、マンセー!」とか言いながら日章旗両手に持った母親に連れられて「必勝日の丸」ハチマキ巻いた子どもが登校する時代になっちゃうよ。
 完全にズレてる。
 「愛する」という原初的な人間の感性や感情を、評価や強制で無理にコントロールすれば、「いびつな形の愛」しか生まれないってのは北朝鮮や韓国見ればわかるだろうに。
 少なくとも僕は周りの人を不快にするような、こんな奇形の愛国心は持ちたくない。

★厳選!韓国情報★:★<*`∀´> WBCの舞台でも「独島は韓国領土」を世界にアピールするニダ!マンセー!

 だいたい小学生の子どもの愛国心なんてどういう基準で評価するんだ?
 具体的な手段がわからん。
 当然その価値もわからん。
 教育する側が何もかもわからんまま「愛国心の評価」を教育現場に持ち込むってのは、もはや教育者が子どもの教育を放棄してるようにしか見えない。
 しかも内心の自由を保障する日本国憲法に抵触している可能性すら含みながらね・・・。
 いつからこんなに日本の教育は無思慮になったんだ?
 そう言う意味では小坂さんや小泉さんは至極当たり前のことを言ってるに過ぎない。
 色々と黒い策略は見え隠れしますが(^^;)。

岐阜新聞:FLASH24:政治

<全文>愛国心評価行き過ぎは是正 衆院特別委で文科相
 小坂憲次文部科学相は26日午前の衆院教育基本法特別委員会で、学校現場での「愛国心」に関する評価に関連し「一部に通知表の項目で行き過ぎがあれば地域で指摘をいただいて学校長にも理解を求める努力をしたい」と述べ、行き過ぎた場合は是正を指導する考えを示した。
 小坂文科相は「内心を評価してABCとつけるのはとんでもない」と強調した。
 小坂文科相は改正案について「国会で十分な審議をいただき、速やかに国民の期待に沿って多くの委員に賛成いただけることを期待する」と述べ、民主党の歩み寄りを得て早期成立することに期待を表明


Yahoo!ニュース - 共同通信 - 「愛国心」評価必要ない 教基法特別委で首相

<全文>「愛国心」評価必要ない 教基法特別委で首相
 小泉純一郎首相は1日午前、衆院教育基本法特別委員会で、学校現場での「愛国心」評価について「愛国心があるかどうかの項目は必要ない」と述べ、通知表に評価項目を設けるべきではないとの考えを示した。
 首相はその上で「子どもに対し、愛国者になれというのは違う」と強調した。
 首相が政府の同法改正案について「数十年先を見越したものであった方が良い」と、今後数十年間は再改正する必要のない内容にすべきだとの認識を示したのに対し、小坂憲次文部科学相は「憲法改正ができるような情勢になり、憲法に沿って改正すべき点が生じれば、その時点で改正する必要が生じるかもしれない」と述べ、再改正の可能性に言及し、首相答弁との食い違いをみせた。


 国に限らず何か、誰かを愛するってのは、その対象との間に確固たる信頼関係がまず築かれなくては話にならない。
 どう考えても「法で規定」とか「評価」なんて言葉とは相容れない概念だ。
 なじまない。
 もちろんそれは政府とて十分認識しているんだろう。
 それでも敢えて教育基本法の中で「愛国心」に触れておきたいというのは、よっぽどの理由があるからに違いない。
 覇権主義に傾く大国中国&ロシア。
 朝鮮半島の不安定さ。
 資源問題を含んだ近隣諸国との領土問題。
 混迷する中東。
 いずれもそういった問題事項、外的要因に対峙するときは、日本の国としての求心力を保っていた方が事を有利に進められる・・・それは感覚として何となく理解するんだが。
 だから「愛国心」が必要なんだと言ってるんだろうが・・・しかし結局は法で規定された愛でしかない。
 評価される愛である以上、それは急こしらえの張りぼて愛国心に他ならない。
 当たり前だな。
 「愛国無罪!」で日本領事館をぶっ壊したどこかの国の市民のように、所詮は時の政府に上手く利用されるだけの愛国心にしかならないんだと思う。
 (その2〜電波編〜へ続く?)